限りなく透明に

試合や大会になると、なぜか身体が思うように動いてくれない。そんなことがあります。別に怪我や疲労ではありません。練習は順調、前日は快眠。それなのに、”ここぞ” という時になると身体が動かなくなる。まるで子泣き爺を背負っているかのように、身体が重くなってしまうのです。

子泣き爺は、漫画「ゲゲゲの鬼太郎」にも登場する妖怪です。泣いている赤子を装い、あやそうと抱え上げると、石のように重くなり、抱え上げた人を押しつぶしてしまう。スポーツをしていると、いつの間にか子泣き爺を背負っていて、思うように動けなくなる。そういう出来事に遭遇することがあります。



実の所、この問題はぼくの前にも度々表れました。解決方法を探ってみても、どうにもこうにも前に進めない。そこでどうしたのかと言いますと、先人の知恵を手がかりに前進を試みたわけです。

スポーツ上達の奥義” として読み継がれている名著『弓と禅』。その中で、弓道師範の阿波研造はこう言っています。

「正しい射が正しい瞬間に起こらないのは、あなたがあなた自身から離れていないからです」

(オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』稲富栄治郎・上田武訳、福村出版、1981年、p.58)

「自分から離れる」とは一体どういうことなのでしょうか。なんとなくわかるような気もするけど、やっぱりよくわからない。それでも、自分なりに解釈して進んでいくしかありません。



ぼくはいつも「自分の上手さを見せたい」とか「自分の実力を認めてもらいたい」とか、そんな想いであふれていました。自分の中はいつも、自分、自分、自分。自分が濃過ぎる。だから、その自分を薄めてみたらどうだろうか。そう解釈しました。

透明人間になるかのように存在感を消していく。グラウンドの上ではまるで一人足りないかのように。目立たなくていい。透明に透明に。

すると不思議なことに、身体が躍動したのです。自分でも驚くほど自由自在。透明な自分は凄いプレーをしている。そして周りも驚いている。だけどそうやって周りに注目されだすと、次第に透明ではなくなっていきます。「すごいでしょ」「かっこいいでしょ」。そんな自分が表れてきて、気がつくとまた子泣き爺に押しつぶされている。



そう、背中を振り返ってよく見てみると、子泣き爺は自分だったのです。だから自分を薄めれば薄めるほど、身体は軽くなり、自由になる。自分がいない時、自分の能力は思う存分に発揮されるのです。

ただ残念ながら、そうやって能力が発揮され周りに称賛される時、それを味わう自分はそこにはいません。自分はすでに透明なのです。肉体はあるけど、自分はいない。そこには、ただただ爽快な気分だけが残るのです。

子泣きジジイ

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