どうしたらスポーツはもっと上達するのか。
先生にそういうことを聞いたことがある。たぶん ”いい大人” はこういう質問をしない。もしかしたら、してはいけないのかもしれない。でも僕は決して ”いい大人” ではないし、もっと言うと ”大人” かどうかも怪しい。だからどうかお許し願いたい。『スポーツがもっと上手くなりたい』そう思っている世界中の子供達のために。そんなことを思いながら、恐る恐る返答を待つ。
「早く寝ることですかね」
先生はそう言われました。
ただいま工事真っ最中!!(2023.7.16)
風呂上がりは水分と活字が欲しくなる。台所でコップ一杯の水をゴクりとやって、本棚へ。さてさて。見るともなく本棚全体を見る。すると不思議と本に呼ばれて手が伸びる。バガボンド7巻、著:井上雄彦。
倒そうと力を込めるほどにこの体は硬くなり自由を失っていく。敵はいない。俺が対峙してるのは、いつの間にか俺自身?
『”我” あの日の柳生宗厳の剣にはそれしかなかった。相手に勝ってやろう、己の力を、強さを、存在を誇示したい、俺を見ろ』
『師は言われた。そんなことのために剣は、武はあるのかね?我々が命と見立てた剣は、そんな小さなものかね?』
定期的に確認したくなる言葉というのがある。「愛してるよ」とか「ありがとう」とか。そういう言葉を聞きたくなるのは、きっと「あなたはここに居てもいいんだよ」ということの確認のような気がする。自分は本当にこの世界に居ても良いものなのか。その肯定が案外難しい。だから自分の存在が揺らぎそうになると、他者を通してそういう言葉を確認したくなる。
『我が剣は天地とひとつ。故に剣は無くともよいのです』
天地とひとつ。この言葉を見ると、なぜか不思議と「愛してる」と言われたのと似たような気分になる。ふっと力が抜け、心が落ち着いて、生きる力が湧いてくる。あっ、わかった。たぶんこれは寝不足のせいだな。おやすみなさい。
『練習はウソをつかない』とか『努力は裏切らない』とか、そういう言葉についてどう思うか。勉強会後の居酒屋で、友人がそんな質問をしてきた。白とも黒とも言えない時は、ただ沈黙するに限る。レモンサワーは今日も美味しい。グレーというのは便利な色だと思う。落ち着きがあって、周りに馴染みやすい。自分はグレーの服を着ることが多い。そんなどうでもいいことを考えていたら、ふと質問の答えになっているのかよくわからない話を思い出した。
サッカー部のキャプテンは毎日一生懸命練習していた。1日も休まずにいつも全力で取り組んでいた。ただ、彼のほんのささやかな上達具合は、明らかにその努力に見合っていなかった。結局彼はずっと補欠だった。一方でチームのエースストライカーは、「今日はデートだから」 と言ってちょくちょく練習をサボって帰って行った。そして彼はいつも当然のように試合で点を取った。キャプテンは今東京で働いている。人間関係に悩んでいるようだった。エースストライカーはもういない。彼は三角関係がもつれて殺された。
「全ては物理法則なんですよ」
先生の言葉が僕の胸に刺さった。
野球好きの友人が面白い話を教えてくれた。
彼の地元には2つの少年野球チームがある。1つは全国大会にもよく出る強豪チーム。もう1つはいつも負けてばかりの弱小チーム。強豪チームの練習はとても厳しい。大人の怒号が飛び交う中で、子供たちは怒られ怒られ野球をする。試合ではバントを多用し、1点を守り切る手堅い野球をする。一方、弱小チームの練習はいつも楽しそう。子供たちは大人と共に笑顔を見せながら野球をする。試合ではどんな場面でも全員フルスイングなので、ランナーが出てもなかなか得点が入らない。
そんな2つのチームの子供たちのほとんどが、その町に唯一ある中学校に進学して、同じ野球部に入る。そして彼らが上級生となり試合に出る頃、面白いことが起こる。なんとレギュラーのほとんどが、弱小チームの子供たちになる。彼らはみんな上手くて、よく打つ。そして不思議なことに、この傾向は毎年のように続く。ただ残念なのは、弱小チームは年々子供たちが減っていて存続の危機にある。そして強豪チームは入会希望者が後を絶たない。
そんな話を、大好きな息子のサッカーの試合を見ながら友人は楽しそうに話してくれた。
試合になると身体が思い通りに動かない。後ろから誰かに羽交い締めをされているかのように、身体の自由が全く効かない。これは一体なんなのだろうか。
そういえば、自分はいつも「かっこいいプレーを見せたい」とか、そんなことばかり強く思っている。でも、その心のありようがすでにかっこ悪い。そこで自分を限りなく透明に近づけることにした。自分をどんどん薄めていって、自分の存在を消していく。試合ではピッチの上で1人足りないかのように。スタートラインでは自分のレーンは棄権しているかのように。まるで自分は存在しないかのように。透明に透明に。
すると不思議なことに、身体が驚くほど躍動した。周りの人も驚いている。どうやら透明な自分は素晴らしい動きをしているらしい。でもそうやって周りに注目され出すと、次第に透明ではなくなっていく。「凄いでしょ」「かっこいいでしょ」。気がつくとまたそんな自分が姿を現し、後ろから羽交い締めをしてくる。
そう、羽交い締めをしていたのは自分だった。だから自分を薄めれば薄めるほど、自分の能力が発揮されていく。ただ少し残念なのは、そうやって能力が発揮されて周りに絶賛される時、それを味わう自分はそこにはいない。そこには、ただただ爽快な気分だけが残るのだった。
勉強会で「千本ノック」についての話があった。
千本ノックのような、いわゆる根性を伴う昔ながらの練習を、古く非科学的な練習として全て切り捨ててしまうのは少し勿体無い。なぜなら、そこには上達のヒントが隠されていることがある。
千本ノックは何十分もノックが続く。身体は次第に力が入らなくなり、フラフラになってしまう。ところが、このフラフラになった状態がとても良い。フラフラとなり身体に力が入らなくなると、ボールの捕り方がスムーズになり、きれいな捕球ができるようになる。フラフラになってからが、一気にグンと上達する。だから始からフラフラと身体の力を抜ければ、グングン上達しますよ。
そんな話だった。「フラフラになるまで」から「フラフラになって」。なるほど。あの辛く苦しい時間は、身体をフラフラにするために効果的だった。だったら初めからフラフラになっちゃえと。そうすれば、身体をいじめるあの苦しい時間を一気に飛び越えられる。そんな時間跳躍ができるというわけだ。
「フラフラはタイムリープ」そうメモった。
家でシャワーを浴びて部屋に戻った時嬉しい状況第3位は、愛する人がベットで待っている時で、第2位はその人が本棚から本を取り出し読んでいる時。そして第1位は、その本が自分の知らない本だった時。いや、本当は知らないはずがない。だって自分の本棚にあったわけだから。でも長い間読まないうちに、記憶からスポッと抜け落ちることもある。だからそんな本を、マジシャンがハトをパッと出すように、もう一度目の前に出現させてくれたことに喜びを隠しきれなくなる。それで、彼女が読んでいた本は『新インナーゲーム』、著:W.T.ガルウェイ。
僕らがスポーツを上手く出来ない理由は、僕らに問題があるわけじゃない。僕らはいつだって完璧なんだ。ただ僕らが上手く動こうとするのを邪魔するヤツがいる。それは、「ああしろ」「こうしろ」と口うるさくアドバイスしてくる”自分の中のもう1人の自分”。この口うるさいもう1人の自分が、僕らの完璧な動きを邪魔してくる。だからあの手この手を使って、もう1人の自分を静かにさせる。すると、僕らは不思議なくらい上手く動けてしまう。
たしか、そんな興味深い本だった。実は冒頭の順位には、1位の上にさらにスペシャルな1位がある。それは愛する人がベットの上で自分の記憶に無い本を読んで、「この本面白そうだね」そんな評価をしてくれる時。だからその返事を待つ瞬間はドキドキする。でも今のこの大きなドキドキは、きっとこんなに口うるさく喋り続けているからだろう。たぶんこの後、僕は上手く動けない。
ずっと追い求めてきたスポーツの奥義。それがどうやら本屋にあるというので直行した。長旅の末、天竺でありがたいお経を受け取る三蔵法師。そんな気持ちで本棚に手を伸ばす。『弓と禅』、著:オイゲン・ヘリゲル。
考えるな。自分から離れろ。師はそう言う。ほほう。
「いったい射というのはどうして放されることができましょうか、もし ”私が” しなければ」
よし、よく言ったヘリゲル。それが聞きたかった。
「 ”それ” が射るのです」
「 ”それ” とは誰ですか、何ですか」
驚くほど良い動き、本当に素晴らしいプレー。そういうことが出来た時、まるで『自分ではないみたいだった』と感じることがある。気持ち良く走ったらなぜか速く走れた。力を入れていないのにすごい力が出た。『自分ではない誰か』が身体を動かした時、なぜか上手くできる。ではこの『自分ではない誰か』とはいったい誰なのか。そしてどうしたら現れるのか。
僕らはたいていここで立ち往生する。にっちもさっちも行かなくなって困り果てる。でも大丈夫。何も問題はない。いやむしろそうやって困り果てることによって僕らは飛躍をとげる。それはなぜなら、もし僕らがこの謎を抱え込んだとしたら、まさにその時、僕らは ”スポーツの奥義” に触れているのだから。
”裸足”は運動能力を向上させてくれる。身体のバランスを整え、僕らに正しい身体の使い方を教えてくれる。裸足がそういう良いことづくめなことは、大体みんな知っている。鍵となるのは”いつやるか”だ。ということで、少年サッカーの練習を裸足でやってみることに。
結果報告。まず子供たちが元気になった。身体にやる気がみなぎっている。そして、上達が速い。走り方、ボールの蹴り方、その他諸々、彼らは目に見えて上達した。ただ一番驚いたことは、あまりサッカーが好きに見えなかった子が、嬉々としてサッカーに熱中し始めたことだった。
それまでは友達とふざけている時が一番楽しそうだったのに、裸足で練習を始めた途端、急にサッカー選手になってしまった。話を聞かない、すぐに喧嘩をする、友達にちょっかいをかける、そういう姿はどこかに消え、真剣に話を聞き、喧嘩の仲裁に入り、困っている子を助けてあげた。それはまるで、裸足によって悪霊が取り払われたかのようだった。
おそらく、僕らは多くのストレスを身体の中に溜め込んでいる。だから、アース線が電気を地中に放出するように、裸足が身体に溜まったストレスを地中へ放出してくれた。そんな風に見えた。どうやら裸足は ”身体と心” 両方のバランスを整えてくれるらしい。
学校で”問題児”と言われている子がサッカークラブにやってくることがある。しかし不思議なもので、サッカーコーチという立場で見ると彼らは総じて頼もしい。物怖じせず、行動力があり、自分の意見を持っている。
ある少年は、練習内容がお気に召さないとその練習には参加しなかった。トコトコとみんなから離れて、ひとりボールを蹴った。楽しそうなら参加するけど、そうでなければやらない。そんな彼の行動は、一見するとわがままに見える。でもある意味、彼はサッカーの何たるかを教えてくれた。もっと言えば、スポーツの本当の価値について気づかせてくれた。
彼が参加しない練習は、おそらく他の子供たちにとってもそれほど楽しいものではなかったのだ。聞き分けのいい子供たちは、わがままを言わずにこっちの提示した練習に付き合ってくれている。でもそれは、単に言われたことをこなしていくに過ぎない。そんな練習では、当然大した上達は見込めなかった。
「僕らはそういう練習では上達しませんよ」
そんな無言の反論を彼はいつも突きつけてきた。彼のわがままは最高のコーチとなった。
研究室の友人が僕の所にやってきて、机の上に砂時計を置いた。メドゥーサって知ってる?
ギリシャ神話にメドゥーサという女性の怪物が出てくる。その美しい瞳を見た者は、石にされてしまうという。メドゥーサは神話の中では退治された。だけど今も遠く宇宙の彼方から、この地球を見つめている。だから僕らの身体は歳と共に硬くなっていく。生まれた時はお餅みたいにグニャグニャなのに、あちらに旅立つ時は石のように硬くなる。メドゥーサの瞳からは逃れられないので、僕らの身体は時間と共に硬くなっていく。
彼はさらに続けた。だけど実は、身体に流れる時間を戻す方法がある。地球上の時の流れは戻せないけど、身体だけ時間を巻き戻すことができる。そうすれば、身体は赤子のようにやわらかく甦っていく。それには身体をこうするんだ。そう言って、彼は砂時計をひっくり返した。
途中からは話半分に聞いていたけど、結局僕は彼の研究論文の実験に参加することを引き受けた。研究テーマは『逆立ち』。しばらくの間、逆立ちをすることになった。
サッカーコーチをしている友人が興味深い話を教えてくれた。
自然広がるのどかな町に小さな少年サッカークラブがある。決して強くない。むしろ弱い方に数えられる。でも不思議なことに、毎年のように素晴らしい選手が出てくる。そのチームで中心だった選手たちは、中学生になってどこのチームに行ってもみんな活躍する。そこで彼は、その秘密を探りに行った。
練習はありふれていた。ただ他のチームと少し違うところがあった。それは子供の笑顔が多いこと。そして大人が威張っていない。もちろん子供たちがふざけ過ぎて怒られることもある。それでもグラウンドには優しい空気が漂っていて、ほっこりとした居心地の良い空間がそこにはあった。
そしてもう1つ面白い発見があった。それは子供たち全員が、ほぼ平等に試合に出るということ。とても上手で中心的な選手が前半だけしか出ない、または後半だけしか出ない、そういうことが度々ある。「サッカーの能力で子供たちを選別するのを辞めた。そうしたら子供たちが輝き出した」、監督さんは笑顔でそう言った。
「才能は居心地の良い場所でよく伸びる」。友人はそんな風に結論づけた。
ウンチク好きの先輩が「スポーツの語源はデポルターレというラテン語で、ウンヌンカンヌン」という話を始めた。この話の結末が『スポーツは遊び』ということは、だいたいみんな知っていた。だからなんとなく上の空で聞いていたら、それが伝わったのか、すぐに次の話が始まった。そしてダーウィンに喧嘩を売るようなこんな話をした。
昔々のその昔、人間には翼が生えていた。大空を羽ばたき、どこまでも自由に飛んで行けた。人間は本当の意味で自由だった。しかし人間は自由をはき違え、次第に傲慢になっていった。そしてついに神の逆鱗に触れ、その自由の象徴だった翼をもがれてしまった。
そんな話だった。今はもう翼は生えていないけど、その代わりとして肩甲骨がある。「肩甲骨は翼のなごりなんだ」彼はそう言った。だから肩甲骨が動くと身体は自由になる。でも多くの人が、肩甲骨が背中に埋まったままになっているという。それで肩甲骨を表に出す方法を教えてくれた。
”下腹を軽く引っ込め、肋骨を引き上げる”
ほう。少しだけ重力から解放されたような。ほんの少し身体が浮いたような。そんな感じがする。そして不思議と身体が軽やかに動く。なるほど、『肩甲骨は翼のなごり』なのか。
勉強会で相撲についての話があった。「四股・テッポウ・すり足」は、単に相撲が強くなるための稽古ではない。これらは、平凡な運動能力の人がトップアスリートになるためのトレーニングだった。そういう面白い話だった。
おなかいっぱい食べたい。神様!みんなが楽しみにしている相撲を捧げます。それでどうか五穀豊穣をお願いします。そうやって相撲は受け継がれてきた。ところが問題があった。五穀豊穣の願いはずっと続く。でも運動能力の優れた人しか力士になれないとなると、そういう人材がいなくなったとき相撲が続けられなくなる。それでは困る。ごく平均的な能力しか持っていなくても力士になれないといけない。
そうした中で、普通の人が ”ひとっ飛び” に力士になるために「四股・テッポウ・すり足」は編み出されて来た。そしてこの ”ひとっ飛び” に飛び越えた壁というのが、普通の人とトップアスリートを隔てる『身体の構造』という壁だった。普通の人が身体の構造を変え、トップアスリートに変身した。その結果大きな力を出せるようになり、力士となった。つまり、普通の人を力士にするプロセスは、普通の人をトップアスリートにするプロセスだった。
なるほど。「四股・テッポウ・すり足」には日本の古の知恵が詰まっていた。
「逆立ちは最高のトレーニング」
友人はよくそう言っていた。硬くなりがちな上半身に柔軟さと力強さを与えてくれる。逆立ちは『身体の才能を呼び起こす』総合的なトレーニングなんだと。ただ僕は、逆立ちが出来ないのを理由にずっと目を逸らし続けていた。
そんなある時、小学校のクラスメイトの訃報が届いた。彼はどんなスポーツでも天才的に上手だった。そしてクラスで唯一1人で逆立ちができた。なぜ逆立ちが出来るのかを聞くと「暇だから公園で練習した」そう言った。そんな彼との記憶が、逆立ちを始めるきっかけとなった。床に座布団を引き詰め、足を振り上げる。ああー、バタン。ただそんなことを1日10分程度繰り返す。1週間経って、ようやく5秒ほど立てるようになった。
そして驚いた。あれっ、楽に動くなぁ。逆立ちを少し練習しただけなのに、明らかに身体が自由に動くようになっていた。身体がもっとこう動いてくれれば、そんな風に思っていた動きが、なぜかスムーズに出来るようになっている。逆立ち自体はまだほとんど出来ていない。ただ、”足を振り上げ、ああー、バタン”を繰り返しただけだった。それだけなのに、身体は素晴らしく変化していた。
『逆立ちは最高のトレーニング』とメモる。
子供たちとの別れの季節が近づくと、新しいチーム選びでアドバイスを求められることがある。
「良いコーチってどういうコーチですか」
そういう難問が飛んでくる。でもこういう時「一概には言えないなぁ」みたいな曖昧さは少しカッコ悪い気がするので、こんな風に返すようにしている。
「選手のプレー中に黙っていられるコーチは良いコーチ。きっと君の才能を伸ばしてくれる。もしそのコーチがいつも機嫌が良かったら、それは素晴らしいコーチ。逃してはならない」
選手の能力を上げる方法は結構千差万別で、人それぞれに合う合わないがあったりする。でも能力を下げる方法はある程度決まっている。その最たるものが『プレー中に選手にアドバイスをすること』。そして『選手の近くで機嫌悪くいること』。だから視点を逆にしてみて、能力を下げることを”しない”コーチがすなわち”良いコーチ”なのではないかしらん。まあ、受け売りですけど。
そんなことを伝える。それからしばらく経って、ふとした時に「新しいチーム決まったかなぁ」と多少センチな気分に浸る頃に彼らは再びやってくる。そして「そんなコーチいませんでした」と報告を受けるまでが子供たちとの別れのエピローグ。
臨時コーチなんて、大抵何の役にも立ちはしない。はじめまして、こんにちは。そして気がついたら、さようならだ。そんな瞬く間にいったい何が出来るというのか。自分の存在意義が揺らぐのを恐れて、必死にアドバイスを投げつける。そしてそれを上手に避ける能力だけが伸びていく。
小学生の女子バスケのコーチをしている友人が、研究室に帰ってきて重いため息をついた。
「昨日5年生のプレーを褒めたら、今日6年生全員から無視された」
彼はそう言ってうつむいた。
パルテノン神殿の柱が美しいのは、丸みを帯びているからだそうだ。エンタシスというらしい。
女子バレー部の臨時コーチになった。
「ゆっくり走ればいいんですよ」
速く走る方法について、先生がそう言ったことがあった。最初は”記録や順位にこだわらず楽しく走れ”的な意味かと思ったが、そうではなかった。速く走りたかったらゆっくり走れ。つまり『ゆっくり走ると速く走れる』そういうことだった。さぁ、この見事なパラドックス。どう読み解けばいいのか、もちろん先生は教えてくれない。ということでサイトウの個人的見解を。
僕らはたいてい小さい頃から、大人から速く走るように求められる。だからとりあえずムキになって走る。そしてそれが速く走る走り方だと思っている。でも本当は、僕らは走り方を知らない。そして僕らのカラダはそれを知っている。それは走るフォームとは少し違う。走り方。ゆっくり走るというのは、カラダに走り方を教えてもらうということなんです。
ゆっくり走るとカラダは気持ち良さを感じる。そして気持ち良さを感じていると、カラダはもっと気持ち良くなろうと走り方を徐々に変化させる。そうやって気持ち良さに従って変化した走りが、速く走る走り方なんです。つまり、速く走るというのは”気持ち良さ”の先にあるのです。僕らのカラダは気持ち良くなると、自然と速く走れるようになってしまう。
えっ、気持ちよさを感じたことがない?それはまだまだペースが速い。ゆっくりゆっくり、もっとゆっくり。早歩きよりゆっくりでも大丈夫。それこそ、明日の朝まで走るつもりで。
ただいま工事真っ最中!!(2023.7.16)
友人が悩みを打ち明けている場面に居合わせたことがあった。
彼は一流のアスリートで、勉強も優秀で、その上とても優しい。彼のことを悪くいう人を聞いたことがない。そんな彼が、たしか『生きづらさ』について吐露していた。彼が思い悩んでいるのだから、世界中の人もきっと何かに悩んでいるのだろう。そんなことを思った記憶がある。
長々と続く彼の話を、先生は焼酎の梅干し割りを片手にニコニコと聞いていた。そして時折何か言っては、ガハハと笑い、つられて彼も笑顔になった。その日はそんな光景がしばらく続いたけど、僕もだいぶお酒が回っていたので、先生が彼にどんなことを言ったのかほとんど思い出せない。
ただ、ひとつだけ覚えていることがある。それは先生が彼の肩に手を置いて、「堂々としていなさい」と言ったことだった。「右に行こうが左に行こうが、前に進もうが後ろに戻ろうが、堂々としていればいいんですよ。何があっても何もなくても堂々していること。成功しようが失敗しようが堂々としていなさい。それが、世界中の人のためになるのだから」。先生は語気を強めてそう言うと、またガハハと笑った。
勉強会で ”緊張” についての論文が紹介された。
緊張は悪者だと思われている。緊張すると身体が硬くなり、スムーズに動けなくなると。でもこれは正しくない。緊張それ自体が、動きに悪い影響を与えるわけではない。むしろ緊張は集中力を高め、良い動きを発揮させてくれる。ではどうして緊張すると動きが悪くなるのか。それは緊張を取り除こうとするから。緊張を嫌がって無くそうとすると、身体は自由を失いスムーズに動けなくなってしまう。だから緊張というのは、取り除こうとしないで ”そのままに” しておくのが良い。
そんな内容だった。緊張は悪者ではない。むしろ味方だったりする。ただし取り除こうとすると悪い影響が出る。だからそのままにしておくのが良い。無くそうとせずに、そのままにそのままに。なるほど。
『緊張とは座敷わらし』 とメモる。